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向島百花園

 東京でお散歩できる公園の内、「向島百花園」について写真付きでご紹介します。

向島百花園の基本情報

 以下では「向島百花園」の基本情報についてご紹介します。

歴史

 1805年(文化2年)、仙台出身の骨董商・佐原鞠塢(さはらきくう)が開園した「新梅屋敷」が始まりと伝えられる。文人のサロンとして利用されるようになると、それまで梅をメインとして営まれていた園に、詩歌にゆかり深い草本類が植えられるようになった。明治以降は洪水などの影響により一時荒廃したものの、昭和に入ると東京市の助力によってに復活し、昭和14年(1939年)、公営の庭園として開園した。

備考

 面積は約1万平方メートル。絵師・酒井抱一の命名により「百花園」と呼ばれるようになったのは1809年(文化6年)頃からだという。園内には「福禄寿」が祀られており、「隅田川七福神めぐり」の一社に数えられている。1978年には国の名勝史跡に指定され、「みどりの日」(5/4)と「都民の日」(10/1)には無料公開される。 向島百花園の園内マップ

利用案内

  • 9:00~17:00
  • 一般:150円
  • 65歳以上:70円
  • 団体割引・年間パスあり
  • 年末年始休園

住所

東京都墨田区東向島3-18-3

アクセス

  • 東武スカイツリーライン「東向島駅」
  • 京成電鉄押上線「京成曳舟駅」

電話番号

03-3611-8705

公式サイト

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向島百花園の写真や動画

 以下では「向島百花園」について写真付きでご紹介します。 向島百花園・入口
 「向島百花園・入口」。都内9庭園の内の一つ。面積は1万平方メートル強と小さいが、小石川後楽園六義園などの大名庭園とは違った趣を有している。
向島百花園の庭門
 「庭門」。右の木板には「春夏秋冬花不断」、左の木板には「東西南北客争来」とある。書は江戸時代後期の漢詩人・大窪詩仏(おおくぼしぶつ, 1767~1837)。暗くて見えないが、門額は天明期を代表する文人・狂歌師である大田南畝(おおたなんぽ, 1749~1823)の書。
向島百花園の庭門前広場
 「庭門前広場」。庭門を抜けてすぐのところ。1845年(弘化2)には12代将軍家慶による梅見の御成りがあったことでも知られている。
向島百花園の秋の七草
 「秋の七草」。七草は、山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ歌にちなんでいると伝えられる。園内では七草を地植えで展示すると同時に、竹かごに植え込んだ「七草籠」を明治以来作り続けており、皇室にも毎年献上している。
向島百花園の福禄寿尊堂
 「福禄寿尊堂」。七福神の一人である「福禄寿」(ふくろくじゅ)を祀っている。1804年(文化元)、園主である佐原鞠塢が福禄寿を祀っていることを知った江戸の文人たちが、隅田川の東岸にも七福神が揃わないものかと考え、七つの神にそれぞれ縁故のある神社仏閣を探しだした。これが「隅田川七福神」の始まりといわれる。
向島百花園の御成座敷
 「御成座敷」(おなりざしき)。庭園北端にある集会場。「御成りの間」(10畳)、「中の間」(8畳)、「芭蕉の間」(8畳)から成る。
向島百花園の山上憶良の歌碑
 「山上憶良の歌碑」(やまのうえのおくらのかひ)。七草の起源になったといわれる山上憶良の歌が刻まれている。一つは「秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種の花」。もう一つは「萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 姫部志 また藤袴 朝貌の花」。
向島百花園から見たスカイツリー
 「庭園から見たスカイツリー」。庭園のほぼ中央に立ち、北から南を向くとちょうどスカイツリーが見える。
向島百花園の花の棚
 「花の棚」。庭園のほぼ中央には、藤棚、葛棚、ミツバアケビ棚など、いろいろな花の棚が据えられている。
向島百花園の萩のトンネル
 「萩のトンネル」。庭園南部。見ごろは9月下旬で、約30メートルにわたって花のトンネルとなる。
向島百花園の池
 「池」。庭園の東側に細長く伸びている。 元動画は⇒こちら
向島百花園にある日本橋石柱
 「日本橋石柱」。庭園の東端。日本橋は石造りだった頃の模造柱で、文字は徳川慶喜のものと伝えられている。石柱の右は幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師・月岡芳年(つきおかよしとし, 1839~1892)の碑。
向島百花園~其角堂永機の句碑 向島百花園~矢田蕙哉翁の句碑 向島百花園~鶴久子の句碑 向島百花園~最中堂秋耳の句碑 向島百花園~螺舎秀民の句碑
 「句碑の数々」。園内には合計29にも及ぶ句碑が立っている。これらは全て、庭園造りに尽力した江戸の文人墨客たちのもの。
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